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「Gloxinia~モンスターバトルで女の子に負かされ全てを失うチャンピオンの話~」 へのレビュー

    • 2024年05月14日
      レビュアーオススメ!
      私は強かった。強くあった。
      しかしその人は突然目の前に現れた。何と無い私の日常の形を取って。
      まるで蝶のような姿で。透明な毒針を持って。
      もっとも私がその毒針に気づけたのは毒が回りきって、グズグズに崩れて、すべてを奪っていただいたその後の事だったが。

      我が主人は美しい。粗雑に私を扱うその姿すら。そして、その美しい口から罵倒が、唾が零れれば、その美しい体で踏んでいただければ、私がその美しさの糧になれるのならこれほど幸せなことはないのだ。
      メタフィクショナルな視点で述べるなら成美さんと大山さんの美しい声とdoskoinpoさんの描いた姿で構成されているのだ、そうでないはずもないだろう。

      そして私はべたべ氏に用意された二つの道を選ぶこととなった。
      "従属"あるいは"破滅(ゲームオーバー)"
      どちらの道でも私は堕ちる、それに変わりはない。私のマゾとしての心は強く満たされる。
      快楽の方向性は若干違うが。

      そしてこの作品に対し、私はウパニシャッド哲学に接近したものを感じた。
      梵我一如、という考えがある。簡単に言えば、私(我)と世界(梵)が実は一体だ、という考え方だ。
      例えば、あなたがプレイするRPGではあなたが主人公で、あなたが居なければその世界は広がりえない。すなわち、あなたの存在自体がその世界の存在と一致していると考えられないだろうか?
      梵我一如とはそういうものだ。
      しかして、何故RPGにおけるあなたから見た他があなたをあなたとして認識していないと言い切れるのだろうか。
      RPGにおける"我"の強さ、その最高位は今現在あなたであるかもしれないが、つまりあなたは他を梵の一部として認識しているかもしれないが、もし仮にあなたが梵と認識している他があなたを超越する我を持っていたならばあなたはその"他"にとってある意味ノイズにもなりえる梵だ。ということをこの作品はそんな事を述べているのではないか、少なくとも私はそう感じた。
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