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プロローグ】
今しがたまで聞こえていたにぎやかな声がしなくなった。僕は、本へと伏せていた視線を、窓の外へ、……
庭へと向ける。
いない。嫌な予感がする。何故だろう。心臓が激しく鼓動するのがわかる。痛いくらいだ。
盛大なクラクションと、タイヤの音と、甲高く短い悲鳴が耳に飛び込んできた。
僕「まさかっ……
あ
ああああああ」
僕は、僕の小さな世界の全てを失う嫌な想像に頭を支配される。
僕の大切な、一人と一匹が永遠に失われるかもしれない。その恐怖に駆られ僕は走り出した。
僕「メイド…………!!猫!!どうか無事でいてくれ」
ほんの3
分前まで、僕はいつもの通りメイドに入れてもらったお茶を窓際で啜りながら、読書にいそしんでいた。
読んでいたのは、カフカ「変身」。
働き盛りの男が、虫になりそして家族によって殺される話だ。
メイドに、
僕「僕が虫になったら殺す?」
と尋ねると、彼女は少し頬を赤らめて。
メイド「いいえ。この命尽きるまでお守りいたしますわ」
と返した。
言った後で、恥ずかしかったのか、小さな声でやっぱりなしです、忘れてくださいとぶんぶん手を振っていたのが印象的だった。
僕「猫は……
」
すらりとした手足を持つ猫は、僕の膝の上で丸まっていた。
僕「君はいつまでも僕のそばにいてくれそうだね」
この子は、生まれた時から僕のそばにいる。歳としてはもう大分老猫に部類されるはずだが、根っからの性格なのか好奇心旺盛で、甘えん坊だ。
いつも部屋の中で跳ねたり跳んだりと、大はしゃぎだ。だが、今日に限って言えば何故か僕のそばで大人しくしたがっていた。
そう、不思議なほどべったりとそばを離れようとしなかったのだ。
。
まどろみを叩き起こすかのような轟音。
ウーウーゥウゥ~、火事です、火事です」
耳ざわりなサイレンが鳴る。火災報知器である。それは誤報だと僕は知っていた。
今日は火災報知器の点検によその人が入ると敷地内の本宅に住む親から連絡があったからだ。だから、メイドも僕も至って落ち着いていた。
しかし、たった1
匹その音に耐えられなかったものがいた。猫だ。
その音に猫はびくりと体を震わせ、驚いて開いている窓から飛び出してしまったのだ。
メイド「いけない、追いかけます。待って!猫!」
僕たちが住むこの家は、離れとはいえ、一般邸宅と比べては大きめの屋敷である。
それをたった一人で切り盛りしている彼女は。腰丈程度の窓をなんなく、ひらりと猫のように飛び越えて。芝生がふかふかと生い茂る庭へと下り立った。
こうして猫が庭に降りることも、メイドがそれを追いかけることも時折あった。
そしてそれはすぐに2
人のじゃれあいに発展し、ころころと笑う彼女らが見れるというささやかな日常イベントと帰すことを僕は知っていた。
だからこそ何も心配することなく僕は本に目を落としたのだった。
短い悲鳴がメイドのもので、敷地内の庭が一望できるこの窓に2
人の姿がないと気づき、すぐ後に鈍い音が聞こえるまで。僕は心配なんてしてなかった。
このささやかな幸せが失われるかもしれないということを。
走る走る走る。彼女らの無事を確認するまではと、重い足と、痛い心臓に鞭うち、音のする方へと向かった。
屋敷に面した道路では電柱に車がぶつかっていた。前方、バンパーが凹んでいる。
車に塗られた塗料は多少飛び散り、電柱へと色写りしていたものの、赤は見受けられなかった。
ただ、道路にはメイドの姿も、猫の姿もなく。
己の車の変わり果てた姿に放心しているお兄さんしかいなかった。
僕「猫とメイド姿の僕位の歳の女の子をみませんでしたか!?」
若者「あ……
え
???幽霊???」
僕「幽霊?」
若者「……
確かに見た、見たんだ。轢きそうに、轢きそうになってとっさにハンドルを切ったら、次の瞬間消えてたんだ。あれは幽霊だったのか?妄想?」
僕「消えたってそんなわけないでしょ!僕確かに彼女の悲鳴を聞いたんですよ!」」
若者「俺もだ、だがよ。跡形もなく消えちまったんだよ。本当だ」
僕「そんな、そんなことって」
若者「でも、轢いては……
な
いと思う。凹みはきっちり電柱の分だけだ。
夢でも見てるみたいだ。どうすればいいんだ?警察か?救急車?」
僕「お兄さんの気が動転していて、メイドと猫は無事で走っていってしまったってことなんだろうか……
そうだ。きっとそうに違いない」
僕はふらついた足取りで家へと戻った。そうだ、家に帰れば2
人が出迎えてくれるに違いない。さっき、危ない目にあったんだよと驚いた顔をしながらすり寄ってくるに違いない。
でも、誰もいなかった。キッチンにも、寝室にも、居間にも、屋根裏部屋にも、倉庫にも。庭にも。……
本
宅にも。
絶望に満ちた
顔で本宅をうろついていた為か両親が心配して駆け寄ってきた。
僕の話を聞いて二人は強く抱きしめてきた。それでも僕の心が溶けることはなく、彼らさえも色あせて見えた。
僕がぽつりぽつりと語るのを聞いて、父は思い当たる節があるようだった。
父「メイドと猫は、神隠しにあったのかもしれないな」
僕「神隠し」
父「そうだ。ここらの伝承にある。命の危機にさらされたとき、それが神の愛したものでれば、神の転移の力により守られるだろうと。」
そんなおとぎ話。と思ったが確かに地域に伝わる伝承本のいくつかに書いてあった。
死んだと思われた人物がひょっこり帰ってきたという話が。
父の気休めの言葉に、少しだけ心が楽になった。大丈夫。2
人は帰ってくる。信じよう。
僕「神様どうか僕の家族をお助け下さい」
僕は、まったく信仰心の欠片もなかった土地神様とやらに祈ることにした。
父には今日は本宅で寝るようにと促された。
しかし、僕は帰りたかった。
メイドの数が多く落ち着かない本宅より、彼女らの匂いが残る離れに。
一刻も早く。何故だかそうしないといけない気がした。
離れは電気を消したままだったため、どこもかしこも暗闇に飲まれ、真っ暗だ。
ガサガサガサガサ
キッチンから音がする。僕のほかには誰もいないはずだ。
泥棒か……
い
や、猫が帰ってきたのか。
僕「猫!?」
音の方にかけよると、全裸で猫のキャットフードの箱に頭を突っ込んでいるメイドがいた。
僕「!!????」
衝撃のあまり上手く世界を認識出来ていないのかもしれない。僕の妄想が、彼女を見せているだけかもしれない。
メイド「にゃ?」
彼女が振り向く。その顔はまさしく長年一緒に暮らしたメイドだった。
あ、やっぱりメイドだ。安心した。
僕「ふざけてないで、服を着たら……
」
メイド「にゃんにゃーっ!」
まるで猫のようにひざに飛び乗ってこようとし、そして僕の腰に絡みつくような体勢となる。すりすりと僕の太ももに頬をすりつける。
僕「あっあっ、やめ」
メイド「にゃー♪」
きっと汗臭いに違いない。それでも彼女はそれを気に留めるどころか、むしろ嬉しそうですらあった。主人の匂いを確かめるような。
しばらくそうしたのち、おなかがすいたらしい。ぱちりと目を開きこちらを見つめたかと思うと嬉しそうに鳴く。指さしているのはキャットフードだ。
僕「おなか、すいたの?」
メイド「にゃ!」
僕が尋ねるまでもなく、メイドはキャットフードの袋を開けて、猫の皿に出していた。
今にも食べようと、ぺろりと手をなめたところで僕はあわててメイドの行動を止めた。
メイドはどうしたのだろうか。どこか、頭でも打ったのかもしれない。
僕「僕もおなかすいたよ。悪ふざけはやめてご飯作ってくれないかな? それと猫は……
」
彼女の頭についた猫耳はまるで本物の猫のようおにふさふさしていた。
僕の猫の毛を剥いで作ったなんていう恐ろしい話ではないとは思うが、まるで。
生きているかのようだ
メイドは嬉しそうな顔をして、ちょんちょんと耳と尻尾を指さした。
メイドの様子はなんだかおかしく、猫の姿は見えない。
そしてメイドはまるで猫になってしまったかのような行動をとる。
一体全体どうなっているんだ。
メイドは、にこにこしながら、すとんと食卓に着く。そこにはほかほかのご飯が用意されていた。
僕「なんでしゃべってくれないんだよ。悪ふざけはよせってば」
メイド「にゃんにゃー」
いつもなら僕が食べるのを待つというのに、彼女はお構いなしに食べ始めた。
ただ時折、食べるように促しているのか僕の口にちょんちょんとフォークを当ててくる。
僕「わかった、わかった。食べるから。」
メイドの作った料理はどれもいつも通り美味しくて。ちょっとだけ涙が出た。
メイドは食後いつものようにお茶をいれてくれた。しかし、コップが間違っていたり、大きな皿の上にカップを置いてみたりと若干おかしな点もある。
メイドは事故自体には合わずに済んだものの強いショックを受けたのかもしれない。
彼女はいつも素直でこんな手の込んだ悪ふざけなんてするような子ではない。
となると…… 。
僕「土地神の力?」
メイドはそうだとも、そうでないとも言わなかったが、優しく僕の頭を撫でて引き寄せた。メイドと猫の入り混じった両方の匂いがした。ここにいる、ああ、そうか。そうだったのか。
納得しろと言われても、出来るものではなかったが。
でも、僕の世界はまだここにあると気づいてほっとした。
失われたわけではなかった。ただ、『変身』してしまっただけなのだ。
僕でなくて、彼女等の方が。
僕が姿を変えて役立たずになろうとも、ずっと傍にいてくれると約束してくれたのは彼女だ。
ならば、僕にも彼女を守る責務があるだろう。
今までと変わらず、この離れでのんびりと暮らそう。2
人で。
こうして僕と彼女等の2人暮らしが始まった。